2010-02-25

与謝野晶子「紫式部新考」

私は『源氏』が、最初は「帯木」の巻から書かれ、よほど後に至って「桐壺」が首巻として加えられたものと感じている。それにはいくつかの理由を挙げうるが、一つは「桐壺」の文章の整然として一点の疵もなく、かつ堂々とした重味を持って完璧の美を示しているのに比べて、第二巻の「帚木」には渋滞した筆の跡のあることが目につく。また一つは雨夜の徒然に若い貴公子が集まって女の批評を交換する「帚木」の結構は、若い読者の心を引きつけるに十分であり、作者がこの巻を総序として、その夜の批評に上った種々の女を具体的に書き分けようと考えつきそうなことである。なお「桐壺」が後に加えられたために、他の巻と矛盾を生じた点さえ私には発見される。またおそらく初めの意図は、あんなに長い小説を書くつもりでもなく書き出したのが次第に感興を加えて、そのうちに長編とする心にもなったのであろう。

(与謝野晶子「紫式部新考」、『与謝野晶子選集 4』、春秋社、1967年、p. 14)

しかし私は、現在の『源氏』五十四帖がことごとく彼女の筆に成ったとは決して思わない。昔から「宇治十帖」は大弐三位の補作だという説もある。私は『源氏』を前後二編に分けて、「若菜」以下の諸巻を後編とし、それを他人の補作であると推定している。紫式部が書いたのは「桐壺」より「藤裏葉」に至る三十三巻である。詳しいことは別に『源氏物語考』を書く機会に譲っておくが、『源氏』は結構より見てこの「藤裏葉」に至り、前編の主人公源光《みなもとのひかる》の境遇がすべて円満にめでたく栄華の頂点を見せて筆が結ばれている。しかるに後編の作者は、新主人公源の薫を点出して、前編に類例のない新味ある恋愛小説を構想し、薫を出すための準備として、なお前編の主人公の後の生活を「若菜」から新たに書き始めた。「若菜」上下の文章が前編に比べてにわかに冗漫の跡のいちじるしいのは、後編の作者の筆がその書き始めだけに、しばらく未熟なのを示しているのである。しかも後編の作者は、次ぎ次ぎの諸巻を逐うて文章の円熟を重ねたのみならず、著想取材において前編の作者以外に新しい境地を開拓し、ことに「宇治十帖」といわれる最後の十巻において、恋の哀史の妙をきわめた。文章においても著想においても、前編の作者に拮抗して遜色のないこの後の作者は誰であろうか。一読して婦人の筆であることから、当時の女歌人のなかに物色すると、古人の言ったように、大弐三位が母の文勲を継いだのであろうと想像するほかに、その人を考え得ない。とにかく後編は、種々の点から作者を異にしていることを私は説明しうるが、ここには略して、ただ後編の「竹河」の巻の初めに、「紫のゆかりにも似ざめれど」(紫式部の書いた『源氏物語』の妙筆には及ばないけれど)と言って、後編の作者が謙遜の語をもって、前後両編の作者の異なることを暗示している一句を引証しておく。この句を本居宣長翁その他の注釈家が「紫の上のゆかり」の事に解釈したのは、大いなる誤りである。

(同書、pp. 22-23)

なにぶん古い時代の説だから、結論そのものはおいとくとして、ここで述べられている源氏各帖の本文に対する与謝野の印象が面白い。与謝野は「桐壺」を「一点の疵も」ない「完璧」と言い、「帚木」を「渋滞」、「若菜」を「冗漫」と言っているからである。それから、「『源氏』の須磨・明石の描写、ことに海岸の暴風雨の光景は空想のみで書かれそうにない」(p. 30)とも言っている。この意見は現在の読み方とはずいぶん乖離しているように見えるのだけど、どうだろう。

ずいぶんオッサンくさい読み方だったんだなあ、と僕は思った。「桐壺」「須磨」「明石」あたりの筆を名文とするのは、なんか江戸時代の儒家とか武家とかで源氏好きのオヤジのしそうな見方っぽいじゃないか。まあ偏見ですが。しかし「帚木」はともかく、「若菜」を重視しないという(「薫を出すための準備」だと見る)感覚はもはや不思議に近いし、あの筆致を充実でなく冗漫ととる向きにはなかなか与しがたい。若書きで明石の入道の最期や猫と柏木のエピソードをあんなふうに思いつき、かつ書けるものだろうか。また、小説として見たとき「須磨」「明石」がなんだか枕詞を並べた常套句の羅列のような描写であるという印象は前に書いた。しかしまあ、あれがいいという人がいるんだろうなあ、というのはわかりますがね……。様々なレベルで読者を満足させることができたというのが、源氏の本文が今日まで残るだけの「強度」を持ったテキストであることの証しなのだから。

与謝野晶子がここまで想像と違う読み方をしていたとは意外であった。樋口一葉などは、どのように読んでいたのか、これもちゃんとしかるべき著作を見てみないとわからないね。

ところで与謝野はこの論の冒頭で紫式部のことを「女詩人」と呼んでいる。『源氏物語』の作者のことを「詩人」と呼ぶ人ははじめて見たのでびっくりした。自分に引きつけて見てるのね。

2010-02-22

宿曜の予言

源氏の幼い頃にその将来を占わせたことは (1)「桐壺」に書かれているが(新体系、pp. 20-21)、「桐壺」の巻で語られるのは「帝にもならず、かといって太政大臣でもない」ということだけである。しかし (14)「澪標」において、宿曜《すくえう》の予言には「御子三人、帝、后かならず並びて生まれたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし」という内容を含んでいたことが明らかになる(新体系、pp. 100-101)。というか、本来「澪標」で語られているこの内容は「桐壺」の時点で触れられていないとおかしい。でないと伏線として機能しないから。その思い込みがつい働いて、ここはよく勘違いしてしまう。

11日の記事の内容を確認しようとして「桐壺」を見返したら、どこにも「御子三人、云々」が見つからないので焦った。また勘違いしないようにここにメモとして書いておく。

個人的な憶測を言えば、(5)「若紫」以前の巻が、それが何巻あったかは別として、とにかく存在していた。しかし『源氏物語』が本格的に流通する段階で、それらは紛失なり若書きなりの理由で省かれた。しかしそれでは源氏と藤壺、冷泉帝との関係や、将来の予言の謎といった物語の基本設定がわからないから話を追うことができない。そこでその段階で作者が背景説明として「桐壺」を用意した。そういう事情のような気がする。それであとで引用しているのを忘れて伏線をはしょって書いてしまったんじゃないかな。とはいえ朝顔斎院や六条御息所との馴れ初めがないのはちょっと省きすぎの感じがするから、そこは別にやっぱり巻があったかもしれない。

2010-02-18

「帚木」について

正月はじめにようやく a. 紫上系を読み終えた。飛ばし飛ばしであるのに、語りはたしかに連続していることが確認できた。とくに、「少女」から「梅枝」には、間にいわゆる玉鬘十帖が入るのでそこで大きく間が空くのだが、前者の末尾から後者の冒頭にかけては、明石の姫君の裳着の準備の話が連続している。

「帚木」の冒頭には、源氏が「まだ中将などにものし給ひしとき」とある。第二巻で「ものし給ひ」という(助動詞キを伴う)のは尋常ではない。第一巻の「桐壺」ではまだ源氏の呼称として「中将」は出てきていないのだ。脚注は「書き手の口調があらわな語りではしばしば過去の時制をとる」と苦しいことを書いているが(おそらくこれは『落窪物語』冒頭の「中納言おはしき」が念頭にあるんだろうけど、あれは例外的な用例ではないか)、これはあとから書かれた巻である証拠とも考えられる。このキは、容疑者が犯人しか知り得ないはずのことをうっかり漏らしてしまった、そんな言葉のように見える。

こうした助動詞の使い方まで小説構成上のテクニックに帰するのは無理な説明だと思う。このくだりを書くとき、源氏の物語をこれから書こうというそのときに、作者は「その時点での源氏の語られかたの状態」によって、当時の日本語の常識の影響を強く受けたはずだ。源氏が中将から太政大臣へと登りつめていったヒーローであることが語り手と聞き手にすでに了解されていれば、地の文でつい「まだ中将などにものし給ひしとき」とキを伴って書いてしまったとしても自然なことである。

「帚木」では、もうひとつ面白いところとして、雨夜の品定めの議論の終盤で左馬頭が総括のような形で女性について論じたくだりの一部を挙げたい。

「すべて男も女も、わろものはわづかに知れる方の事を残りなく見せ尽くさむと思へるこそいとほしけれ。三史五経、道みちしき方を、明らかに悟り明かさんこそ愛敬なからめ、などかは女と言はんからに、世にある事の公私《おほやけわたくし》につけて、むげに知らずいたらずしもあらむ。わざと習ひまねばねど、すこしもかどあらむ人の、耳にも目にもとまる事自然《じねん》に多かるべし。さるままには真名を走り書きて、さるまじきどちの女文になかば過ぎて書きすくめたる、あなうたて、この人のたをやかならましかば、と見えたり。心ちにはさしも思はざらめど、をのづからこはごはしき声に読みなされなどしつつ、ことさらびたり。上らふのなかにも多かる事ぞかし。

(「帚木」新日本古典文学大系『源氏物語』一、p. 59)

ここで左馬頭は「そりゃ女だからってなんにも知らないってわけじゃあなかろう。とくに学んだわけではなくても、学のある人のお側にいれば教養が自然に耳から入ってくることだってあるだろう。しかしそれで覚えた知識をひけらかして真名(漢字)だらけの消息をよこしてきたりするようでは可愛げがない」と言っている。つまり、女にも教養の身に付いた人がいるということは認めるが、それをひけらかすのはアウトだと。小説において、登場人物は作者の道具である。僕はここを読んで『紫式部日記』を思い出した。

『紫式部日記』には、兄が漢籍を学んでいるのを作者が側で聞いていたところ、兄よりも覚えがよくて、父から「お前が男であったら」と言われたと書いているところがある(岩波文庫、p. 79)。それから清少納言を批判するくだりでは、清少納言は教養を振りかざして「真名書き散らし」てるからいけないと書いている(p. 73)。つまり左馬頭の台詞はそのまま『紫式部日記』の作者を擁護するものとなっている。こんなこと書くのは本人しかいない。そういうわけで、ここは「帚木」以下の b 系も紫式部の手によるものだという証拠になっている。

2010-02-15

源氏進捗

ようやく半分か……。

a 紫上系を読むのには一年近くかかったのに、b 玉鬘系のほうはひと月ちょっとで読んでしまった。言ってしまえば、a 系は、ここは、という要所要所を除けば退屈だったんだよね。b 系のほうは先を読みたくなるんだな。玉鬘十帖の中程で中だるみするというのはたしかにそうかもしれない。しかしそこはそこで読めるようにはなっている。

さていよいよ「若菜」の上下にとりかかるとするか……。

おまけ。源氏物語の成立分類と分量。巻と頁は新日本古典文学大系のもの。

広い画面で見たい方は独立ページ版を。僕の読書状況もわかってしまうが、あえて出してみる。

2010-02-11

源氏物語の成立順序

いずれこのことについて書かないといけないと思ってたのだけど、面倒でずいぶん遅れてしまった。『源氏物語』の執筆された順序について。込み入った話じゃないんだけど、ちゃんと書こうとすると長くなってしまう。

『源氏物語』の成立順序については議論があって、大野晋『源氏物語』(岩波現代文庫)や、『光る源氏の物語』(中公文庫)などにわかりやすく経緯が載っている。これについて聞いたことがなかったという人は、まず上掲の本や Wikipedia の「源氏物語」の項の「巻々の執筆・成立順序」のところを読んでみていただきたい。

とくに決定的なのは武田宗俊の説で、これは『源氏物語の研究』(岩波書店、1954)という本で読めるようなのだけど、この本は入手が困難でまだ直接読むことはできていない。しかし次のような主旨であるという。

『源氏物語』の「藤裏葉」までの各巻について、

  • (1)「桐壺」、(5)「若紫」、(7)「紅葉賀」、(8)「花宴」、(9)「葵」、(10)「賢木」、(11)「花散里」、(12)「須磨」、(13)「明石」、(14)「澪標」、(17)「絵合」、(18)「松風」、(19)「薄雲」、(20)「朝顔」、(21)「少女」、(32)「梅枝」、(33)「藤裏葉」を紫上系
  • (2)「帚木」、(3)「空蝉」、(4)「夕顔」、(6)「末摘花」、(15)「蓬生」、(16)「関屋」、(22)「玉鬘」、(23)「初音」、(24)「胡蝶」、(25)「螢」、(26)「常夏」、(27)「篝火」、(28)「野分」、(29)「行幸」、(30)「藤袴」、(31)「真木柱」を玉鬘系

としたときに、紫上系の巻だけをつなげて読んでも矛盾のない物語になる。そして紫上系の登場人物は玉鬘系にも登場するが、玉鬘系で登場する人物は紫上系では一切登場していない。

とくに後者はひじょうに重要な事実だと思う。

#a 系b 系
(1)桐壺
(2)帚木
(3)空蝉
(4)夕顔
(5)若紫
(6)末摘花
(7)紅葉賀
(8)花宴
(9)
(10)賢木
(11)花散里
(12)須磨
(13)明石
(14)澪標
(15)蓬生
(16)関屋
(17)絵合
(18)松風
(19)薄雲
(20)朝顔
(21)少女
(22)玉鬘
(23)初音
(24)胡蝶
(25)
(26)常夏
(27)篝火
(28)野分
(29)行幸
(30)藤袴
(31)真木柱
(32)梅枝
(33)藤裏葉

また、紫上系の物語は素朴なハッピーエンドの筋書きで、文章もわかりやすいのに対して、玉鬘系では反対に源氏の失敗や暗い側面が描かれ、文章も屈折して難しくなっているという特徴がある。

ところで、源氏物語には複数作者説というのが昔からとなえられてきた。与謝野晶子は「若菜」以降が紫式部の娘の作だと考えていたという(未読)。和辻哲郎も「源氏物語について」(『日本精神史研究』)によれば複数の制作集団による作業としか考えられないという認識だったようだ。しかし、これらは武田説以前のもの、執筆順序の背景について明らかになっていない時点でのものだったことに注意しなければならない(和辻の論は執筆順序についても言及しているが、それは「桐壺」があとから書かれたという見解についてである)。

和辻が違和感を抱いたのは、つまるところ「桐壺」から「帚木」への不連続性、そして巻ごとにまちまちになる作者の語り口調といった点である。それらの印象をもとに、これは統一的な人格の仕業とは思われぬと考えたわけである。そのまま頭から読み進めたとき、その印象はたいへんに正しいと思う。そして、これが多くの人々の源氏読破への挑戦を挫折に導いただろうことも想像に難くない。

しかし、紫上系だけを選んで続けて読むと、その語り口はまったく連続していることがわかる。以前僕は源氏を巻の順で読んでないと書いたけど、それはこの分類に従って読み進めていたのだ(まだ進行中ですが)。これはたいへんファンタスティックな体験だ(った)。女性たちと巡り会い、政敵に追われ、復活し、立派な邸宅を築いて女たちを住まわせ、「自身は天皇にはならないが、三人の子供がそれぞれ帝、后、太政大臣になる」という初巻「桐壺」の謎めいた予言の成就が近づき、源氏は栄華の絶頂の中で四十の賀を迎えるというのが紫上系の「藤裏葉」までのあらすじである。おそらくこのままいけば「めでたし、めでたし」で終わる予定だったのだろう。そしてその「藤裏葉」まで読んだあとで、あとから書かれたという「帚木」に戻る(「藤裏葉」が紫上系の登場人物しか出てこない最後の巻だから折り返すならここである)。するとはたして「帚木」の冒頭はこうだ。

光源氏名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかるすきごとどもを末の世にも聞き伝へて、かろびたる名をや流さむとしのび給ける隠ろへごとをさへ語り伝へけむ、人のもの言ひさがなさよ。さるは、いといたく世を憚りまめだち給けるほど、なよびかにをかしきことはなくて、交野の少将には笑はれ給けむかし。

まだ中将などにものし給しときは、内にのみさぶらひようし給て、大殿には絶えだえまかで給ふ。忍の乱れやと疑ひきこゆる事もありしかど、さしもあだめき目馴れたるうちつけのすきずきしさなどはこのましからぬ御本上にて、まれには、あながちに引きたがへ、心づくしなることを御心におぼしとどむるくせなむあやにくにて、さるまじき御ふるまひもうちまじりける。

(「帚木」新日本古典文学大系『源氏物語』一、p. 32、一部表記を改める。)

「藤裏葉」までを読んできた読者にとって、この導入は、あとから語られる内容と照らしあわせて考えれば、順当に受け入れられうるものとなる。おや、と思うとすれば、作者がこれから源氏のいままでとは違う側面について語ろうとしているのだな、というその不穏な雰囲気だけで、なにか前提を無視されているとか、これまでとは全く違う人格が語り手となって話し出したというような唐突さはない。そして、「帚木」から「空蝉」「夕顔」「末摘花」と読み進めれば、そこでも語りは連続していることに気づく。さらに、「帚木」「夕顔」には「玉鬘」への伏線が張られている(頭中将と夕顔との間に子があったこと)。つまり、「帚木」からいわゆる玉鬘十帖までが、やはり一人の作者によるものと認められるわけだ。

だから『源氏物語』の複数作者説をとなえるにしても、だれもかれもがそれぞれに書き足しをして、その雑多な集合体が現在の五十四帖であるという主張はさすがに乱暴すぎることになる(しかし和辻哲郎はそれに近い考え方だったのではなかろうか)。複数作者があったとすれば、その区切りはおおむね武田説の区分に沿って分かれたものになるだろう。つまり a. 紫上系、b. 玉鬘系、c.「若菜」以降、d. 宇治十帖という分類だ。

続く。

2010-02-04

八の字形の「は」を「ハ」と翻刻することについて。

なんだそりゃ、と思うかもしれませんが……。

仮名が現在の一音一字に整理されるより以前は、ひらがなにはひとつの音価に対して異なる漢字に由来する複数の仮名があった。「尓」に由来する「に」とか「者」に由来する「は」(蕎麦屋の暖簾でよく見られるやつ)など。こんにちそれらは変体仮名と呼ばれている。

そういう変体仮名のなかに、「八」に由来する「は」がある。カタカナの「ハ」と同じ形なんだけど、仮名文字の文章中に普通に使われてるんだからひらがなだ。現在の仮名の中にも、「り」と「リ」、「へ」と「ヘ」のように、ひらがなとカタカナとで同じ見かけをしているものがある。「八」に由来する「は」もそういうもののひとつということになる。

ところが、展示会なんかの解説パネルや、ものの本では、この「は」を「ハ」の字形で活字にしているのをよく見かける。これってどうなの?

現代の読者のために翻刻しているのなら、これは「は」で起こすべきだと思うのだ。変体仮名もそのまま起こすのなら、「尓」に由来する「に」や「者」に由来する「は」もそうすべきで、「は」だけ特別扱いする理由はない(あるのか?)。たまたま「ハ」の活字がカタカナにあったから入れただけなのだろうか。しかしそれで誰が得するというのか。展示会などでこれを目にした人たちは普通「ハ」はカタカナだと思うから、「どうしてこの書の『は』はカタカナで書いてあるのかな?」などの余計な疑問を抱かせるだけだと思うんだけど。

女「どうしてこの本の『は』はカタカナで書いてあるの?」
男「それはね、昔の『は』にはカタカナの『ハ』と同じ形のひらがなもあったからなんだ」
女「まあすてき、ユウ君ったら、なんでも知っているのね」
とか、デートで使えるようにそうしてるのだろうか。

つまりその、なんか自己満足っぽくない?

現代のようにコンピュータで扱うようになると、これは検索などの都合からしてもなおよろしくない。文字コード U+30CF(ハ)は「KATAKANA LETTER HA」という「意味」を担っているからだ。同じようなことは、「ミ」の字形の「み」なんかについてもいえる。

2010-02-01

待ち合わせで数年ぶりに高田馬場の芳林堂書店に入ったところ、「日本語学」という雑誌(明治書院)が「源氏物語のことば」という特集を組んでたのを見つけてつい買ってしまった。源氏読み終わるまでは「源氏についての本」はあんまり読まないことにしてるんだけど、『古代日本語文法』の小田勝センセイの名前もあったので、たまにはと。源氏本文に疲れたときにでも読もう。

えーと、今日は、これだけ。日記だ(笑)。